前古典派の潮流

音楽史における古典派の時代は、ヨーゼフ・ハイドン、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの3人の大作曲家に代表されるウィーン古典派の時代と、それに至るまでの前古典派の時代に大きく区分することができます。ウィーン古典派は名実共に西洋芸術音楽が文字通りの「クラシック(=規範的)」なものとして、その様式を完成させた時期にあたりますが、それに至る前段階として、まずはその前史となる前古典派の潮流を概観しておく必要があります。この時代には、とび抜けて有名な大作曲家がいるわけではありませんが、バロック的な様式を清算しつつ新しい時代の音楽を模索する多くの音楽家の活動がなければ、ウィーン古典派の音楽も生まれなかったと思うからです。

この前古典派における音楽史の担い手となったのは、1710年代から1730年代に生まれた作曲家達です。年代的なイメージとしてこの世代は、ちょうどバッハの息子達(バッハの長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハは1710年生まれ。末子のヨハン・クリスティアン・バッハは1735年生まれ。)やモーツァルトの父親(レオポルト・モーツァルトは1919年生まれ。)の世代にあたります。

前古典派の時代の音楽史の潮流で重要なものをあげれば、@交響曲や弦楽四重奏曲などの多楽章による音楽ジャンルの確立Aオペラ・ブッファの成立とオペラ改革Bピアノの発明とピアノ音楽の発展、があげられるのではないかと思います。これらは次の世代の音楽家達へと直接的に受け継がれて、後々の音楽史を豊かに彩っていくこととなるからです。

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交響曲の誕生と発展

今日では、演奏会のメインプログラムとして最後に演奏されることが多い交響曲ですが、その起源はバロック時代のオペラの序曲、特にイタリア式序曲にあります。イタリア式序曲は「急−緩−急」の3つの部分で構成されていますが、前古典派の時代にその3つの部分が次第に独立した楽章へと分離していくことで、交響曲の基礎ができあがっていったのです。このため初期の交響曲は、アレグロなどの早めのテンポによる力強い第一楽章、ゆったりと寛いだ雰囲気の緩徐楽章としての第二楽章、フィナーレを飾る軽快な第三楽章、という3楽章からなるものが一般的となっています。
こうした最初期の交響曲の成立に功績のあった作曲家が、イタリアのミラノで活躍したジョヴァンニ・バティスタ・サンマルティーニ(Giovanni Battista Sammartini /1700〜1775)です。サンマルティーニの交響曲は、規模は小さいながらも立派に3楽章から成るもので、その生涯に70曲以上の交響曲を作曲しています。よくハイドンを称して「交響曲の父」と呼ぶことがありますが、音楽史上の真の「交響曲の父」はサンマルティーニが相応しいと言えるでしょう。

形式の確立と平行して交響曲の発展に不可欠であったのは、それを演奏するオーケストラの拡充と演奏技術の開発です。この方面で大きな功績があったのがマンハイム宮廷楽団と、その楽団の楽長として交響曲を数多く作曲したヨハン・シュターミッツ(Johann Stamitz /1717〜1757)やクリスティアン・カンナビヒ(Christian Cannabich /1731〜1798)といったマンハイム楽派の作曲家達です。マンハイム宮廷楽団は、その当時の最高峰の演奏技術でもって交響曲の発展に寄与しましたが、その演奏は「マンハイムの花火」などと呼ばれたオーケストラならではのクレシェンドの効果を活かしたものでした。このマンハイム宮廷楽団の演奏はパリへ向かう旅の途中でマンハイムに立ち寄った青年時代のモーツァルトも聴いており、その優れた演奏技術は、後々のモーツァルトの交響曲創作にも少なからず影響を与えているものと思われます。このような優れたオーケストラに恵まれたマンハイム楽派の作曲家達によって、いよいよ古典派の交響曲の原型が確立され、ハイドンやモーツァルトの創作へと受け継がれていくことになります。
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古典派の時代における市民階級の音楽受容

古典派の時代においては、音楽受容の担い手が従来の貴族階級から市民階級へと移りつつありました。こうした時代の流れを受けて、この時期に急速に市民階級へと浸透していったのが公開コンサートです。かつては自前の楽団を所有する貴族階級でなければ自由に音楽を聴くことはできませんでしたが、今や一般市民であっても、お金を出してチケットを買いさえすれば手軽に音楽を聴くことができるようになったのです。新興の市民階級にとってコンサートに出かけて音楽に耳を傾けることは、自分達が社会の主役となりつつあることを実感する機会であったのかもしれません。

この公開コンサートで盛んに演奏されたのが交響曲でした。主な公開コンサートとしては、ロンドンで開催されたバッハ−アーベル・コンサートやパリで開催されたコンセール・スピリチュエルなどです。コンセール・スピリチュエルでは後にモーツァルトが<交響曲第31番「パリ」>を発表しています。また、ハイドンが後期の傑作交響曲群を発表したザロモン・コンサートも、こうした公開コンサートでした。公開コンサートが盛んになる一方で、市民が自ら演奏するための室内楽や独奏曲の楽譜の出版も盛んになりました。

こうして交響曲という多楽章形式のオーケストラ曲が広く市民に聴取してもらうために多数作曲されたのに対して、同じく多楽章形式による鍵盤ソナタや弦楽合奏曲のような器楽曲は、プロの音楽家が聴衆に聴かせるためというよりは、むしろ市民が自ら演奏するためという目的でもって、多数の楽譜が出版されるようになりました。
前古典派の作曲家の曲は、このように広く市民に向けた曲が求められたためもあって、それぞれの作曲家が個性的な表現を目指すというよりは、大衆に分かり易い曲作りに主眼が置かれているように思われます。このため、この時代の曲は何を聴いても似たり寄ったりに聞こえてしまうという面は否めません。しかしながら、かつては貴族や教会のお抱えになるしか社会的身分の保証がなかった作曲家という職業にとって、広く大衆にアピールできる交響曲を作って公開コンサートで披露したり楽譜を出版したりすることで新たに収入を確保することができるようになりつつあったということは、自らの新たな社会的地位が確立されつつあったことをも意味していたのです。
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ゼーノとメタスタジオのオペラ台本改革

バロック後期におけるナポリ派のオペラは、ヴェネツィアでオペラが人気を博して以来の悲劇と喜劇の混在、そしてカストラートを始めとする人気歌手の名人芸のひけらかしの場となっていました。喜劇的な場面は、大衆の受けを狙った低俗な笑いに傾きがちであり、カストラートの歌も歌詞の意味や物語の展開とは関係なしに、自らの技巧を誇示するためのものとなってしまっていたようです。
こうした風潮に対して、今一度オペラが本来有していたはずの品位を取り戻すべく、台本の改革に取り組んだ人物が、アポストロ・ゼーノとピエトロ・メタスタジオです。

ヴェネツィア出身の劇詩人アポストロ・ゼーノ(1668〜1750)がまず取り組んだことは、登場人物やアリアの数を減らすことで物語全体の構成を引き締めようとしたことでした。それに加えて、詩人としての気品ある文体を用いることで、古典劇としての品位をオペラに取り戻そうとしたのです。ゼーノの台本には多くのバロック後期の作曲家が曲を付けていますが、代表的な作曲家としては、ゼーノと同じくヴェネツィア出身であったアントニオ・カルダーラ(1670?〜1736)を挙げておきましょう。

ゼーノの後を継いでオペラ台本改革を志したのがピエトロ・メタスタジオ(1698〜1782)です。メタスタジオの台本改革をもって、オペラ界も古典派の時代へと移行していくこととなります。メタスタジオの台本の特徴は、まずその題材を神話や古代の歴史に求めること、そして喜劇的なシーンや滑稽役の排除による物語としての首尾一貫性の確保にありました。ゼーノの台本改革をより一層推し進めることにより、メタスタジオの台本は古典的な様式感を獲得するに至ったのです。
当代随一の台本作家となったメタスタジオの台本には、前述のカルダーラの他、ナポリ派のレオナルド・ヴィンチ(1696頃〜1730)やレオナルド・レーオ(1694〜1744)、そして声楽教師としても有名であった二コラ・ポルポラ(1686〜1768)など、ゼーノ以上に多くの作曲家が曲を付けていますが、メタスタジオ自身が「私の台本の理想的作曲家」と呼んだ、ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699〜1783)がその代表格と言えるでしょう。ハッセはドイツ出身ながらイタリアオペラで名を挙げた作曲家であり、<歌劇「アルタセルセ」>や<歌劇「捨てられたディドーネ」>など代表作の多くがメタスタジオの台本によるものでした。

メタスタジオの台本は多くの場合、「忠節を尽くすべき王が、自分の恋人に横恋慕している」とか「無二の親友が、実は親の敵の息子であった」など相反する価値観に葛藤する主要登場人物が、あわやという危機的状況に陥るも、理性の力と王や君主の徳性によってハッピーエンドがもたらされる、という内容を持っています。
メタスタジオによって様式化されたオペラは、為政者の治世を称揚することに通じる内容を有していることから、正歌劇(オペラ・セリア)と呼ばれるようになり、その一方で台本から排除されることとなった喜劇的な内容は、オペラ・セリアの幕間劇(インテルメッツォ)と結びつくことで、やがて喜歌劇(オペラ・ブッファ)として独立していくこととなります。ゼーノやメタスタジオの台本改革は、オペラ・セリアの確立だけでなく、ブッファの成立にとっても重要な役割を果たしていたのです。
 
【参考音源】
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ペルゴレージの奥様女中とオペラ・ブッファの誕生

元々は王侯貴族の祝宴を華やかに彩る催しとしてバロック期に誕生したオペラでしたが、やはり前古典派の時代となると、その受容の主体は市民階級と変わっていきます。こうした市民階級にとっては、昔々の英雄物語や神話の神々の物語が中心で音楽も重々しいオペラ・セリアは、あまりにも自分達の感覚とはかけ離れたものと感じられたようです。それに比べて幕間に演奏される喜劇的な内容をもった音楽劇のインテルメッツォは、その音楽が市民に親しみやすい簡潔で気の利いたものであったこともあって、本編のオペラ・セリア以上の人気を獲得することとなったのです。
特にジョヴァンニ・バティスタ・ペルゴレージ(Giovanni Battista Pergolesi /1710〜1736)が作曲した<インテルメッツォ「奥様女中」>は、市民と同様の社会的地位にある女中が、自らの機知によってお金持ちの奥様になるという風刺の効いた内容とペルゴレージの快活な音楽が広く市民の共感を得たことから、本編のオペラを大きく凌ぐ人気を勝ち得ることとなりました。ペルゴレージは<奥様女中>以外にも宗教曲の名作<スターバト・マーテル>を残しながらも若くして亡くなってしまいますが、これ以降、このインテルメッツォは次第に本編のオペラとは個別に演奏されるようになり、これがやがてオペラ・セリアが確立するのに伴い排除されることとなった喜劇的な要素と結びつくことによってオペラ・ブッファへと独立していくことになります。

ところで、作曲者の死後の1752年に、この<奥様女中>がパリで演奏された際には、リュリや未だ存命のラモーといった作曲家による従来からのフランスオペラを支持する人々と新しいイタリアの音楽を支持する人々との間で、その優劣を競う論争、いわゆるブフォン論争が引き起こされます。特にイタリア音楽支持派の中心人物にはルソーがおり、ラモーの音楽に激しい批判を行うだけでなく、自分でオペラを作曲してしまったりもしています。もとよりフランスの抒情悲劇とイタリアのオペラ・ブッファでは、その目的も内容も全く違うため優劣を比べること自体に無理があったわけですが、こうした美学論争を通じてフランスにおいても後にオペラ・コミークが誕生するきっかけにもなりました。

こうして生まれたオペラ・ブッファというジャンルにおいても、オペラ・セリアにおけるメタスタジオに相当する重要な劇作家カルロ・ゴルドーニ(1707〜1793)が登場することとなりました。ゴルドーニは、それまでは単に面白可笑しいだけのブッファの台本に、人情味や風刺の要素を加えることで芸術的な価値を高めていったのです。ゴルドーニ作の主要な台本としては「月の世界」がありますが、これにはゴルドーニとの共同作業を主に担うことになった作曲家であるバルダッサーレ・ガルッピ(1706〜1785)だけでなく、後にはハイドンまでも曲を付けています。オペラ・セリアに代わって庶民の人気を得ることになったオペラ・バッファはその後も、ドメニコ・チマローザ(Domenico Cimarosa /1749〜1801)の<歌劇「秘密の結婚>やジョヴァンニ・パイジェッロ(Giovanni Paisiello /1740〜1816)の<歌劇「セビリアの理髪師」>といった古典派期の人気作が生み出されますが、このような人気作が誕生する流れの中で、モーツァルトの<歌劇「フィガロの結婚」>が創り出されるに至ります。モーツァルトの<フィガロの結婚>の貴族階級に対する風刺の効いた内容が、フランス革命勃発のひとつのきっかけにもなったことを考えると、その祖先とも言うべきペルゴレージのインテルメッツォは、単に音楽史にとどまらない重要な歴史的役割をも果たしていたことになります。
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