近代音楽(第1次大戦前)概観

機能和声による表現方法の拡大を限界まで推し進めたロマン派が、ある種の行き詰まりに陥りつつあったことへのアンチテーゼとして、後期ロマン派時代の同時代現象として生まれてきたのが、いわゆる近代音楽です。このため、一口に近代音楽とは言っても、作曲家によってそのアプローチには様々なものがありました。

フランス近代音楽の扉を開いたクロード・ドビュッシーは、和声をドミナントやトニックといった機能面ではなく音色そのものとして楽曲の構成要素に位置づけようとしました。このため、長調・短調を中心とした調性システムを離れて五音階(ペンタトニック)や全音音階、あるいは中世の教会旋法を用いることで、繊細でニュアンスに富んだ独自の音楽語法を獲得しました。これは用語としての是非はあるものの、同時代のマネやモネら印象派の画家の作品にも共通する美的感覚から「印象派音楽」と呼ばれることとなります。また、同じフランスのモーリス・ラヴェルも一時期、同じ傾向の作風を示すことともなりますが、ラヴェルはドビュッシーとはまた異なる精密で理知的な作品によって、フランス近代音楽に新しい風を送り込むこととなります。

ドビュッシーが和声の音色や長調・短調以外の調性システムに着目することでロマン派の呪縛から逃れようとしたのに対し、新たなリズム法を開拓することで新時代の音楽を創造しようとしたのが、イゴール・ストラヴィンスキーです。その錯綜するリズムが乱舞する<バレエ「春の祭典」>の初演時の大混乱は、ストラヴィンスキーの試みが当時の聴衆にとってどれほど新奇で衝撃的であったのかを物語るエピソードと言えるでしょう。こちらは、やはり同時代の画家であったゴーギャンらの絵画に通じるものとして「原始主義」と呼べるものであるかもしれません。
ストラヴィンスキーはまた、音楽の素材として民謡にも注目していましたが、そうした方向性をより明確に志向したのが、ハンガリーのベラ・バルトークやゾルターン・コダーイでした。彼らは協同して各地の民謡を採取し、自らの創作に活用しましたが、そうした民謡の持つプリミティブな素朴さや力強さを生かそうとする点においては、ストラヴィンスキーの原始主義に近いものが感じられます。

機能和声からの脱却を最も大胆な方法で行ったのがアルノルト・シェーンベルクでした。彼は機能和声の前提となる調性そのものを否定し無調の音楽を書くことで、調性を超越した音楽にたどり着くこととなりました。必ずしも聴いて理解し易い音楽ではありませんが、その歴史的意義をかみしめながら聴くと、耳に優しいだけの音楽とは異なった苦い味わいに心を打たれるかもしれません。

これら第1次世界大戦前までにおける近代音楽の様々な語法は、音楽史の流れの重要な変換点をなすものとして、直接間接に現代音楽の語法へと受け継がれていくものとなったのです。
posted by バニラ at 10:14 | TrackBack(0) | 近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近代音楽の始まりとドビュッシーの印象主義

19世紀末から20世紀初頭において、ロマン派の音楽はある種の行き詰まりの様相を呈していました。これにはいくつかの要因が考えられます。第一の要因としては、それまでの作曲技法の中心的な役割を担ってきた和声法が極めつくされ、新たな表現力の開拓が困難になっていたことです。第二の要因は、これ以上の肥大化が不可能となるほど管弦楽の規模が拡大し、やはりその面においての新たな効果が求め難くなっていたことです。このような傾向は、グスタフ・マーラーやリヒャルト・シュトラウスの音楽に顕著に見ることができるでしょう。そしてまた、世紀末の退廃的な雰囲気の中で、人々の音楽的な志向もマンネリ化し、それに伴い、生み出される音楽作品もまた、ロマン的で意味深い情緒表現を通り越した、単に甘く感傷的なだけのものへと傾きがちであったことは否めないでしょう。

こうした後期ロマン派の行き詰まり感を、独自の表現手法により克服した作曲家がクロード・ドビュッシー(Claud Debussy/1862〜1918)です。ドビュッシーの作曲技法の大きな特徴は、機能和声からの脱却にあったと言えるでしょう。そのためにドビュッシーがとった戦略の一つが、古い教会旋法の復活でした。思えば、ルネサンス以降、長音階(イオニア旋法)と短音階(エオリア旋法)が他の古参の旋法を圧倒して普及したのは、ひとえにドミナントやトニックといった機能和声の効果が活用しやすかったためです。ドビュッシーはあえて古い教会旋法を持ち出すことで、言意図的に従来からの和声法、つまりはロマン派的な表現からの離反を試みたのでした。その他、ドビュッシーが各地の民謡で用いられている五音階(ペンタトニック)や、オクターブを全音のみで構成する全音階を積極的に用いたのも、同じ文脈で説明できるでしょう。

一方、和音そのものは、純粋な音響効果として徹底的に活用され、ロマン派の主情的な音楽とは全く異なる、色彩的で清新な音楽が生み出されました。こうしたコンセプトにより、管弦楽曲では<牧神の午後への前奏曲>であり、ピアノ曲では<ベルガマスク組曲>といった最初期の作品が生み出されました。これらの作品においては、上記の特徴のほか、古典派・ロマン派の音楽では明確であった旋律線が、うっすらとベールに包まれたように曖昧になっているそのかわりに、和声の響きそのものの連続体が楽曲を構成していることが、感じられるのではないでしょうか。これはちょうど、デッサンを曖昧にすることと引き換えに、溢れんばかりの眩い光の色彩を描き出したマネやモネ、セザンヌやルノワールら「印象派」の画家たちと共通した美学的感性であり、ドビュッシーの音楽が「印象主義」と呼ばれる所以でもあります。(ドビュッシー自身は、自分の音楽がそのように呼ばれることには否定的ではありましたが・・・)

ドビュッシーの代表作である<交響詩「海」>や<夜想曲>、<前奏曲集第1巻・第2巻>といった作品では、まさに形としては捉え難い「印象」を見事に音楽化してみせる一方、<歌劇「ペレアスとメリザンド」>では、その独自の手法の効果により、オペラの分野においても新たな境地を開拓することとなりました。まさにドビュッシーこそ、ロマン派に代わる新たな音楽、すなわち近代音楽の扉を開いた作曲家であったのです。
牧神の午後への前奏曲の詳細についてはこちら

【参考音源】
posted by バニラ at 21:46 | TrackBack(0) | 近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シェーンベルクの無調音楽

ドビュッシーが機能的和声法、すなわち古典派以降の長音階と短音階を中心とする音階システムからの離反により、ロマン派音楽の行き詰まりを克服しようとしたのと同じく、音階からのしがらみを脱することで、ロマン派音楽の刷新を図った作曲家がアルノルト・シェーンベルク(1874〜1951)です。ただし、ドビュッシーは長音階・短音階の音階システムからは距離を置いたものの、調性そのものを否定したわけではありませんでしたが、シェーンベルクは調性までも否定し、音階の中心となる音の存在しない無調音楽の創始者となることで、近代音楽ひいては現代音楽までの道筋を開くこととなったのです。

シェーンベルクも、その創作の最初期は後期ロマン派のただ中にありました。この時期の代表作である<浄められた夜>や交響詩<ペレアスとメリザンド>、そして大作<グレの歌>等は、後期ロマン派の到達点を表す傑作群です。しかしシェーンベルク自身はこれらの創作を通じて、ロマン派音楽ひいては調性音楽の限界を感じるようになったのでしょう。次第に彼の音楽は調整が曖昧な方向へと傾いていき、ついに<弦楽四重奏曲第2番>(1908)の終楽章において無調へと到達することとなりました。
無調の音楽は、人間の持つ生理的な自然に反するものであるため、そのメロディーは不自然に感じられるものであり、場合によってはグロテスクですらあります。シェーンベルクのこの時期を代表する作品である<月に憑かれたピエロ>(1912)では、そうした無調音楽の持つ特性により、怪奇的・幻想的な詩の内容が効果的に表現されています。この<月に憑かれたピエロ>は独唱者と室内楽によって演奏されますが、その音楽はまるで語るような歌、あるいは歌うような語りといった独特の様相をしています。これは「シュプレッヒ・シュティンメ」と呼ばれるもので、シェーンベルクによる無調音楽の独自の形態を示したものといえるでしょう。

こうした無調音楽の音楽史的な位置づけについては、見方によって二通りの解釈が可能であるように思われます。まず一つ目として、それまでの音楽の基礎的ルールの根幹をなしてきた調性を否定した、全く別の音楽であるという普通の解釈です。また別の見方としては、そもそもワーグナーの楽劇<トリスタンとイゾルデ>で無限旋律が用いられて以降、ロマン派の音楽はより遠い調へ、そしてより転調の頻度を挙げることで、表現力の拡大を図ってきました。この過程で、頻繁に転調がされればされるほど、調性が定まらなくなっていくため、無調音楽とはロマン派的表現の究極的な進化形と捉える解釈も可能です。いずれの見方をするにしても、無調音楽がそれまでの音楽が持ち得なかった新たな表現力を獲得したことは確かです。
やがてシェーンベルクは、この無調音楽をシステマチックに創り出すための技法として、十二音音楽を開発することとなりますが、それは無調音楽が生まれてから10年以上も先のことであり、それまでの間はシェーンベルク自身の感性の赴くままに無調の音楽が紡ぎ出されていたのです。
【参考音源】
posted by バニラ at 21:15 | TrackBack(0) | 近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ストラヴィンスキーの三大バレエと原始主義

ドビュッシーやシェーンベルクが、方法論としては違っていても、いずれも従来の機能的和声法から離れることでロマン派音楽からの脱却を図ったのに対し、それとは全く異なるアプローチによって近代音楽確立の一翼を担うこととなった作曲家がイゴール・ストラヴィンスキー(1882〜1971/Igor Stravinsky)です。
ロシアの名門歌劇場のバス歌手を父親として生まれたストラヴィンスキーにとって、人生の転機となったのは、ロシア・バレエ団の主催者にして稀代の興行師として知られるセルゲイ・ディアギレフの知遇を得たことです。たちまちストラヴィンスキーの才能を見抜いたディアギレフは、彼に一つのバレエ音楽を依頼しますが、そうして生まれたのがストラヴィンスキーの三大バレエの第一作目<バレエ「火の鳥」>(1910)です。ロシアの民話を題材とした力強い音楽は、それまでのヨーロッパ的な優美なバレエ音楽とは異なった新たな音楽の誕生を人々に印象づけることとなりました。続く第二作目の<バレエ「ペトルーシュカ」>(1911)においても、ロシア民謡を効果的に取り入れることにより「火の鳥」に続く大成功を収め、ストラヴィンスキーの名声はヨーロッパ中に広く知れ渡ることとなったのです。

そうしたバレエ音楽の作曲中に、ストラヴィンスキーはある不思議な夢を見ます。その夢というのは・・・古代の異教徒たちが車座になって宗教儀式を行っており、その中心では太陽の神の生贄として選ばれた乙女が死に至るまで踊り狂う・・・というものでした。この不思議な夢をもとに生み出されたのが、三大バレエ第三作目の<バレエ「春の祭典」>(1913)です。
1913年にパリのシャンゼリゼ劇場にて初演された際には、かつて耳にしたことのない変拍子の乱舞と錯綜するリズム、咆哮する不協和音に対して多くの聴衆が拒絶反応を示し、劇場は大混乱に陥りました。それまでの音楽では拍子は曲の中でほぼ一定であり、不協和音は音響効果として用いられたとしてもすぐに協和音に解決するのが普通でした。ストラヴィンスキーは、そうした聴衆にとっての「普通」の感覚を<バレエ「春の祭典」>によって打ち砕いて見せたのです。この曲が「現代音楽の古典」といわれる由縁です。もちろん「春の祭典」の音楽が表面的にはカオス状であったとしても、その裏には緻密な音楽理論に基づいた作曲技法による裏付けがなされていることは言うまでもありません。

これらストラヴィンスキーの三大バレエでは、変拍子によるリズムの強調や不協和音の効果を刺激的に活用することにより、人間の本能に訴えるかのごとき根源的な力強さが獲得されていることから、三大バレエを作曲していた時代のストラヴィンスキーの音楽を「原始主義」と呼ぶこともあります。このような傾向は、ゾルタン・コダーイ(1882〜1967)や、彼とともにハンガリー各地の民謡を採取してまわり、自らの創作にも活用していたベラ・バルトーク(1881〜1945)の初期の音楽にも見られるものでもあります。そして彼らの音楽の持つプリミティブな性格は、当時のヨーロッパにおいて一つの流行となっていた異国趣味にも合致するものであり、それまでは「ヨーロッパの音楽」であったものが「世界の音楽」へと裾野を拡張していく契機にもなっていくのです。
 
【参考音源】
posted by バニラ at 01:06 | TrackBack(0) | 近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近代音楽の異端児サティ

ドビュッシーやストラヴィンスキーたちは、それぞれの方法論によってロマン派音楽を脱し、近代音楽の確立を成し遂げましたが、そうした時代の流れの中で最も徹底的に反ロマン主義を貫いたのがフランスの作曲家エリック・サティ(Erik Satie/1866〜1925)です。
近年急速にその人気と評価を高めてきたサティですが、彼の生い立ちや経歴は必ずしも大作曲家のそれとは言い難いかもしれません。パリ音楽院に入学するも中退してしまい、カフェ「黒猫」のピアノ弾きとなっていたサティは、また神秘思想にも傾倒して薔薇十字教団の公認作曲家の肩書も持っていました。39歳になってからスコラ・カントールムに入学し、こちらは無事に卒業するものの、中央楽壇からは遠い位置において活動をしていたのです。

そうしたサティの創作の中心はピアノ曲、それもごくささやかな小品ばかりなのですが、そんなささやかな小品だからこそ、サティは軽やかに中央楽壇では成し得ない革新的な音楽を生み出すことができたのだと思います。
代表作である<3つのジムノペディ>では、穏やかなメロディーと透明な和音の裏側にサティの確信犯的な創意が隠されています。<ジムノペディ>はその3曲とも音楽の展開らしいものや盛り上がりが全くありません。ロマン派の作曲家にとっての創作の眼目が、転調や変奏を駆使した音楽の展開によるドラマの構築とそれによる感情への訴えかけにあったのに対し、サティの<ジムノペディ>はその音楽の展開を全く欠いているのです。さらに3曲を並べているにも関わらす、その3曲はどれも似通った音楽であり、曲と曲との間の対比すら無いのです。耳に心地よい音楽が滔々と流れるだけであり、もはや聴衆に対して積極的に聞き入ってもらうことを最初から求めていないかのようです。
彼はまた、音楽院を中退してしまったことからも推察されるように、アカデミズムを嫌っていましたが、そのためサティの音楽はいきおい風刺的な色合いを帯びたものとなり、<官僚的なソナチネ>や<犬のためのぶよぶよとした前奏曲>など人を食ったような曲名のものが多いのも特徴となっています。

こうした方向性をさらに徹底したのが、晩年にダリウス・ミヨーとの共作による管弦楽曲<家具の音楽>です。この音楽は、まるで上質な家具のように雰囲気良くその場所にあるけれども、誰もそれを意識して見ていないように、耳にしてはいるし、場の雰囲気を良くしてくれているけれども、意識的にそれを聴いているわけではない・・・そのようなことを意図して作曲されています。これは聴衆に聴き入ってもらうことを前提としたロマン派の音楽とは、全く別の発想から生まれた音楽であり、今でいうところのバックグラウンドミュージック(BGM)の先駆とも言えるものです。ある時この<家具の音楽>が流れたとき、客がおしゃべりをやめて音楽に聴き入ってしまったことに対して、サティは「おしゃべりを続けるんだ!」と怒ったと伝えられています。

こうしたサティの音楽は、同時代のドビュッシーやストラヴィンスキーにも大きな影響を与えただけでなく、フランス6人組といった次の世代の作曲家たちの精神的な支えにもなりました。また<家具の音楽>で提示した新たな音楽のあり方は、現代の音楽理論家・作曲家であるマリー・シェーファーが提唱した「サウンド・スケープ」の概念をも先取りするものであったのです。
 

【参考音源】
posted by バニラ at 21:35 | TrackBack(0) | 近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。