カルミナ・ブラーナとゴリアール

 中世の世俗曲は、騎士階級の人々によるもの以外にも、現代に復元可能なものがいくつかありますが、そのうちの一つが12世紀ごろに作成された<カルミナ・ブラーナ>です。カルミナ・ブラーナとは「ボイレンの歌曲集」という意味で、ボイレンのベネディクト派修道院で発見されたことに由来するものです。(なお、近代の作曲家であるカール・オルフの作曲による<カルミナ・ブラーナ>は、この中世の歌曲集を素材として現代曲へと再構築したものです。)

 このカルミナ・ブラーナは、ゴリアールと呼ばれる、町から町を放浪する遍歴学生や、職にあぶれた僧職者たちによって書き留められたものでした。こうした人々は、宗教によって厳しく規律された中世にあって、自由を謳歌する身分であったがために、世の人々からは蔑視される存在でもあったと思いますが、それだけに歌われた内容も、酒・女・社会風刺など多岐にわたっており、騎士階級の人々のやや取り澄ました恋愛詩と比べると、ずっと強烈で奔放な個性を発揮しています。

 それにしても、騎士階級にしても、遍歴学生にしても、職にあぶれた僧職者にしても、いずれも当時の知識階級にあった人々だと思います。現代とは比べ物にならないくらい識字率も低かったでしょうし、そもそも紙も高価な物であったと考えられますので、現代まで残されることなく消え去ってしまった世俗曲はたくさんあったのでしょう。こうした曲がわずかでも残され、今日耳にすることができる偶然に感謝したいと思います。


【参考音源】
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西洋音楽の発展の始まり

 グレゴリウス1世の肖像画には、教皇の耳元で鳩が何やらささやき、教皇はその内容を口述筆記させているものがあります。鳩は精霊を意味しており、神に選ばれた人間である教皇にあてて神が精霊を通じて直接に聖歌を吹き込んでいることを意味しています。すなわち、実際にグレゴリオ聖歌が形成された歴史的なプロセスは別にして、この肖像画が示している宗教的な意味合いとしては、グレゴリオ聖歌は神から直接に授かったものであると当時の人々は考えていたということです。
 神からの授かりものとは普通は神聖にして不可侵であるべきであり、人間が勝手に作り変えてよいものではないはずです。すなわち、聖書を勝手に書き換えてしまったりすることは、許される行為ではありません。しかしながら、他の宗教においてもしばしば見られるように、経典に注釈を加えることや装飾を加えることは人間にも許される行為と考えられていたようです。

 西洋音楽の歴史は、この神聖であるべきグレゴリオ聖歌に注釈や装飾を加えることによって発展をし始めたのです。この注釈・装飾のしかたの方法には大きく分けて2つあり、一つがトロープスと呼ばれるもので、もう一方がオルガヌムと呼ばれるものです。トロープスは8世紀ごろ、オルガヌムは9世紀ごろから始められていたようであり、グレゴリオ聖歌の形成と並行する形で、すでに聖歌の注釈が開始されていたと考えられています。最初はささやかな規模で行われたこれらの注釈や装飾が、後の西洋音楽の巨大な発展へと繋がっていくのです。
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トロープスとセクエンツィア

 トロープスとは、元となるグレゴリオ聖歌の前や曲の途中に新たな歌詞を挿入することを意味しています。最初は、グレゴリオ聖歌のメリスマ部分(歌詞の一つの音節に対して、装飾的に多数の音をあてた部分)において、一つ一つの音程ごとに元の歌詞を注釈する言葉が当てはめられることが行われました。
 やがて、既存の旋律に言葉を当てはめるだけでなく、旋律まで新たに作ったうえで元となるグレゴリオ聖歌に挿入するようになるに至っては、単なる注釈による装飾から作曲に限りなく近づいているといえるでしょう。トロープスの主たる作者としては、ザンクト・ガレン修道院のトゥオティロ(?〜915)といった人がいます。

 こうしたトロープスのうち、アレルヤ唱の長大なメリスマ部分に歌詞をつけたものを、特にセクエンツィア(続唱)といいます。このセクエンツィアは、次第にアレルヤ唱から離れて独立した楽曲となり、セクエンツィアの「作曲家」を生み出すようになります。
 セクエンツィアは9世紀ごろから作り始められ、その後膨大なレパートリーを形成するに至りましたが、主たる作曲者としてはザンクト・ガレン修道院のノトケル・バルブルス(840?〜912)、最古の女性作曲家とも言うべきヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098〜1179)、<怒りの日>を作曲したトマス・デ・チェラーノ(?〜1255?)といった人たちがあげられます。

 上記のように、ザンクト・ガレン修道院には、グレゴリオ聖歌の成立していく時期に、トロープスやセクエンツィアに関する重要な役割を果たした2人の修道士がいました。アルプスの北方の修道院では、グレゴリオ聖歌が成立する過程と平行して、早くもグレゴリオ聖歌の改編が行われていたのです。

また、中世における宗教的な題材を扱った音楽劇を典礼劇といいますが、この典礼劇の元となったものもトロープスでした。復活祭のミサ中の聖歌に加えられたキリストの復活のくだりを歌う対話型のトロープスが祭壇の脇で寸劇をつけて歌われるようになり、それが次第に規模が大きくなり、演じられる場所も教会の中から町の広場へと移っていったものと考えられます。
 北フランスの町ボーヴェで上演された<ダニエルの劇>は、ネウマによる楽譜が完全に近い形で残されており、それに基づいて復元された演奏を聴くこともできます。

 音楽と演劇の結びつきという点において、典礼劇はオペラの遠い祖先の一つであると考えられていますが、その典礼劇がグレゴリオ聖歌を注釈するトロープスから生まれたということは、西洋音楽の最も世俗的なジャンルであると思われるオペラでさえも、グレゴリオ聖歌無しには成立しなかったのかもしれません。
 

【参考音源】
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初期ポリフォニー音楽の誕生とオルガヌムの発展

 トロープスが、グレゴリオ聖歌に歌詞を挿入する形で注釈を行ったのに対し、オルガヌムは歌詞を異なる音程で重ね合わせることによりグレゴリオ聖歌の装飾を行った最初期のポリフォニーによる音楽形式のことす。このオルガヌムが、記録に残された最古のハーモニーを持った多声音楽です。

 ところで、こうしたハーモニーを持った音楽はそれまでに存在していなかったのかについて、まずは考えてみるために、再び<かえるの歌>を思い浮かべてみることにしましょう。<かえるの歌>を皆で斉唱してももちろん良いのですが、それよりも輪唱したほうが絶対に楽しいとは思いませんか。古代や中世の人たちも同じように民謡や童謡などでは旋律をずらして歌ったりして楽しんでいたのではないかと思われるのですが、ただ、そうしたものはあくまで即興的なものであり、その結果生じる和音も偶発的なものでしかなかったというわけです。
 このようにして、いわば民族音楽的なものとして行われていた多声音楽が教会や修道院においても徐々に受け入れられ、多声音楽が理論的な考察の対象となり、多声音楽に関する理論書が書かれることとなりました。最初のオルガヌムの理論書は、9世紀半ばの「音楽提要(ムジカ・エンキリアーディス)」というものであり、これは元となるグレゴリオ聖歌の下に別の音程を持ったオルガヌム声部を一音対一音の関係で付け加えることを論じています。
 その音程関係は、オクターブや5度で平行に移動するもの(平行オルガヌム)と、同じ音から次第に開いていって、4度まで開いた後にしばらく平行で移動した後、再び閉じていって同音になる(斜行オルガヌム)といった単純なものでした。

 最初の理論書上では、このように単純なものでしかなかったオルガヌムですが、次第に複雑な対位法的な展開が試みられるようになり、オルガヌム声部も主旋律のグレゴリオ聖歌との一音対一音の関係から一音対多音となるなど自由度が増していきます。また、オルガヌム声部の位置も、グレゴリオ聖歌の下から上へと移ることにより旋律としての歌唱的な性格を強めていきます。ここに至って、やはりオルガヌムもトロープスと同様に、聖歌の注釈や装飾という範囲を超えて、作曲行為へと移行してきてしまったことを示しているといえるでしょう。宗教的な束縛が今とは比べ物にならなかったであろう中世においてさえ、人間はその創造意欲を抑えることができなかったことをトロープスやオルガヌムは物語っているといえるようです。

 中世の昔から今日に至るまで、キリストの巡礼者が目指す聖地であるスペイン北西部のサンティアゴ・デ・コンポステラ(サンティアゴとはスペイン語で聖ヤコブを意味しています。その由来は9世紀に十二使徒の一人である聖ヤコブのものとされる遺骨が見つかり、その地に聖堂が建てられたことによります。)と、そこへ至る巡礼街道の経路にあたる南フランスのリモージュ近郊の聖マルシャル修道院に由来する12世紀ごろの写本には、実際に演奏に用いられた数十のオルガヌムが収められています。中世の当時、次第にヨーロッパ各地からの巡礼のための街道が整備されるのに伴い、11、12世紀当時の音楽も巡礼街道を通して伝えられ、サンティアゴの「カリストゥス写本」とリモージュの聖マルシャル修道院の写本の、2つの貴重な初期ポリフォニー音楽の写本が残されることとなりました。この写本からは、実際に演奏された楽曲は理論書上の楽譜よりもさらに複雑であったことが分かります。
 
【参考音源】
posted by バニラ at 10:29 | TrackBack(0) | 中世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ノートルダム楽派のオルガヌム

 当初は単純な音程の重ね合わせだけであった初期ポリフォニーですが、次第にそれぞれの旋律の動きが複雑になるのに伴い、ここで一つの問題が生じてくることとなります。多声音楽の形態がそれだけ複雑になってきたということは、複数の演奏者がテンポやリズムを何らかの方法で合わせなくては演奏ができないということになってくるからです。従来のネウマ譜では音の高さは明示できても音の長さは表現することができませんでしたので、次代の音楽家の課題は、音の長さをも表現した楽譜を発明することであったのです。

 この課題を最初に解決したのが、ノートル・ダム楽派と呼ばれた人たちです。パリのノートル・ダム寺院はゴシック様式による代表的な建築物で、1163年に着工され、最終的には1245年に完成しています。ちょうどそのころ、レオニヌス、ペロティヌスといった音楽家がこのノートル・ダムを中心として活躍していました。
 レオニヌスは長く引き伸ばされたグレゴリオ聖歌による定旋律を低声部に置き、上声部が軽やかに動きながら定旋律を装飾していくスタイルの2声のオルガヌム大曲集を作曲しました。レオニヌスの後輩にあたるペロティヌスはリズムの動きを統一的に秩序づけ、また3声、4声と声部を拡張することで先輩の作品をより精緻なものへと作り変えていきました。

 ここで用いられているリズムの統一方法はモドゥス・リズムも呼ばれるもので、6つのモドゥスの組み合わせにより曲が作られました。このモドゥス・リズムは、モーダル記譜法という方法により書き表されましたが、これにより初めて音の長さを表現することができたのです。
posted by バニラ at 00:36 | TrackBack(0) | 中世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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