音楽のルネサンスとブルゴーニュ楽派

 西洋文化圏は「ルネサンス」の時代において、近代社会への一歩を踏み出します。もともと「ルネサンス」とは14世紀にイタリアでおこった古代美術、特に古代ギリシアの文芸復興運動を意味する言葉です。しかしながら、この時代に社会全般が、中世的な「神学的・宗教的な意味を重視」したものから「人間の感性を重視」したものへと価値観を大きく転換させていき、新たな社会の枠組みを構築していったことに着目するのであれば、「ルネサンス」とは、単に美術上の様式を示すだけではなく、中世とは異なる新しい人文主義的な文化の動き全般を示す言葉として用いたほうが適切なように思われます。

 そもそも音楽に関しては、当時の人々も古代の音楽がどのようなものであったのかを知らなかったわけなので、古代ギリシアの音楽の復興という意味のみにおいては、音楽のルネサンスは存在しないことになってしまいます。しかしながら、「ルネサンス」を人文主義的な文化の動きとして捉えてたならば、音楽芸術にも「ルネサンス」はもちろん存在します。
 このような意味においては、古代の音楽は、ルネサンス時代の音楽のあるべき姿としての幻の規範であったと言えるのかもしれません。すなわち、作曲家は自分自身の純粋な表現意欲に従って作曲活動を行うようになったということであり、世俗音楽だけではなく宗教音楽においても人間性を重視した自由で豊かな表現が追求されるようになったのです。
 美術における「ルネサンス」の中心はイタリアでしたが、音楽における中心地はブルゴーニュ公国でした。この国はパリ南東に位置するディジョンを首都としながらも、フランスの東側を回り込むようにベルギーからフランスの北東辺あたりまでを領土としていました。戦乱と黒死病(ペスト)に喘ぐヨーロッパにあって政治的経済的な繁栄を誇ったこの国には、芸術家たちも当然のことながら集まってきます。

 このブルゴーニュ公国の宮廷に出入りしていた音楽家たちは、フランスの作曲技法を身につけた後、イタリアなどを遊学することで様々な地域の音楽を吸収して故郷に帰ってきたのですが、さらにダンスタブルなどイギリスの音楽家からイギリス特有の和声法も学ぶことにより、ヨーロッパの音楽を総合化していきました。
 こうした人々をブルゴーニュ楽派と呼んでいますが、このうちの代表的な作曲家としては、ギョーム・デュファイ(1400?〜1474)と、ジル・バンショワ(1400?〜1460)があげられます。彼らの創作が、音楽芸術におけるルネサンスを方向付けることになりました。


【参考音源】
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デュファイの世俗曲と定旋律ミサ

 デュファイの創作は、世俗歌曲・祝典モテット・ミサ曲と多岐に渡ります。
 世俗歌曲では、フランス語による叙情的な旋律に他の2声部が寄り添うように絡み合い、中世とは異なる3和音の甘い響きを奏でながら、憂いを秘めた雅やかな音楽が流れていきます。<さらば、我が恋>のメランコリックな味わい、ペトラルカの宗教詩によった<うるわしき聖なる乙女>の敬虔な表情、<コンスタンチノポリスの聖母教会の嘆き>の哀感を帯びた歌など、いづれもモノトーンなイメージの中世の曲とは異なった、淡い色彩感を持った曲となっています。
 こうした世俗歌曲はブルゴーニュ・シャンソンと呼ばれ、バンショワもデュファイと同様に優れた世俗歌曲を残しています。

 また、結婚式や聖堂の献堂式、戦争の終結などを祝う祝典行事の際に演奏される祝典モテットも同様の三和音を用いながら、より一層華やかなスタイルで作曲されています。特にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式のために作曲されたデュファイの祝典モテット<若々しきバラの花>は、ルネサンス最初の音楽として名高いものです。
 まずはこうした曲を聴くだけで、デュファイらによって中世とは全く異なった音楽(=ルネサンスの音楽)が創り出されたことを実感することができると思います。

 ミサ曲はデュファイの創作の最も中心的なジャンルでしたが、特に「定旋律ミサ」に名作が多くあります。「定旋律ミサ」とは既存の旋律を音楽の骨格となる旋律として各楽章の中心におき、他の声部がこの旋律に自由に絡み合わされていくもので、これによりミサの各楽章が音楽的に統一感のあるものとなりました。
 実際のミサの儀式においては、ミサ通常文の各楽章は通して歌われることは無いにもかかわらず、このように統一感のあるものとして全曲をまとめようとする姿勢は、音楽を独立した芸術として考え始めたルネサンスの音楽家の姿勢を如実に表しているものといえるでしょう。

 また、定旋律として選ぶ旋律は、ミサ曲なのでグレゴリオ聖歌が宗教的な要求からは最もふさわしいと考えられるはずなのですが、彼のミサ曲の多くが世俗曲の旋律を定旋律として用いています。和声の面からも、もはや神学的な要求からの完全協和音ではなく、人間にとって心地よく響く3和音が主体となっています。こうしたこともルネサンスの人文主義的な影響の音楽への反映とみることができると思います。
 代表作といえる<ミサ・ロム・アルメ(戦士)>や<ミサ・ス・ラ・ファセ・パル(もし私の顔が青いなら)>は、それぞれ、当時流行っていた民謡<戦士>と、自作のシャンソン<もし私の顔が青いなら>を定旋律に用いています。

 作品の質・量、作曲技法の革新、芸術家としての姿勢、いずれの面においても、音楽のルネサンスはデュファイによって始まったのでした。


【参考音源】
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フランドル楽派とオケゲムの音楽

 繁栄を誇ったブルゴーニュ公国も1477年にフランスに併合されてしまいますが、ブルゴーニュ楽派の伝統はそのままブルゴーニュ公国の属国であったフランドル地方出身の音楽家に引き継がれ、フランドル楽派と呼ばれるようになりました。フランドル楽派において10世紀以来発展してきた多声音楽の作曲技法が集大成されます。すなわち、各声部が対等に奏でる旋律が複雑に絡み合いながらも、全体としては調和のとれた音楽となっている、いわゆるポリフォニー音楽が完成の域に達します。
 特にフランドル楽派の作曲家が得意としたものが、「通模倣様式」と呼ばれるもので、ソプラノ・アルト・テノール・バスの各声部がお互いに旋律を模倣しあいながら全曲が通して歌われていきます。全曲が「通して」「模倣される」ため、通模倣様式と呼ばれています。
 歌詞が繰り返されることにより、曲の内容が聴きやすく、また、旋律が重なり合っていくことにより、まるで複雑な模様の編み物が編みあがっていくような神秘的な雰囲気が醸し出されるため、特に宗教曲に向いた作曲技法であるといえますが、そのためか、フランドル楽派の作曲家は多くの優れた宗教曲を残しました。

 フランドル楽派の最初期の重要な作曲家は、ヨハンネス・オケゲム(1425?〜1495?)です。彼はバンショワを師とし、またデュファイとも親交があり、彼らの音楽技法をさらに発展させました。三代のフランス王に仕え、フランドル楽派の発展に多大な貢献をした作曲家ですが、その作品で現存するものは多くはありません。
 彼の代表作である<レクイエム>は現存する最古の多声のレクイエムとして名高いものですが、練れたハーモニーと浮遊するような旋律の絡み合いにより静謐で厳粛な音楽となっています。また、<ミサ・プレスク・トランジ>や<ミサ・カプト>でも、同様の宗教的な雰囲気を味わうことができます。

 このような雰囲気の表出は、低音パート(バス)の機能がこの時代に確立してきたことと関係があるように思われます。バスが和声の進行を司るだけでなく、低音の響きそのものが宗教的で厳粛な音楽表現を生み出しています。さらにポリフォニーの技法の面では、オケゲム以降の作曲家のように模倣の技法はあまり使われていない代わりに、各パートの旋律に数比関係が忍び込ませてあるなど中世的な感覚が残されており、これがまた秘密めいた雰囲気の表出に一役買っているようです。

 オケゲムは、人物的にも尊敬を集めていたといわれ、多数の優れた弟子を育てましたが、その中の一人が、ルネサンス最大の作曲家といわれるジョスカン・デ・プレです。フランドル楽派の音楽は、このジョスカン・デ・プレによって最盛期を迎えることになります。


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ジョスカン・デ・プレの音楽

 デュファイに始まり、オケゲムへと受け継がれたルネサンスの音楽は、ジョスカン・デ・プレ(1440?〜1521)によって最盛期を迎えることになります。ジョスカンの音楽こそがルネサンス音楽の最も典型的なものであり、かつ最高峰でもあります。

 ジョスカンの生年ははっきりとは分かっておらず、若いころのことも良く分かっていませんが、オケゲムの死に際して<オケゲムの死を悼む挽歌>を作曲していますので、若いころにオケゲムに師事していたと考えられています。
 1483年ごろには、フランドルを離れてミラノの枢機卿スフォルツァ家に仕えており、以後、教皇庁礼拝堂聖歌隊、フランス王ルイ12世の宮廷楽団、フェラーラ公の宮廷楽長などを歴任し、1504年以降は終生コンデ・シュル・レスコーのノートルダム教会の司教座教会参事会員として過ごしました。

 ジョスカンの現存する作品としては、宗教曲ではミサ曲が20曲弱とモテットが約90曲ほど残されています。代表作ともいえる<ミサ・パンジェ・リングヮ>やモテット<アヴェ・マリア>は通模倣様式による音楽の最も美しい例といえるでしょう。一見複雑な書法でありながら、聴いてみると簡潔で均整のとれたプロポーションを持ち、ルネサンス音楽の典型とも言える美しさを持っています。
 また世俗曲では、フランス語のシャンソンやイタリア語のフロットラが約60曲ほど現存しています。ルネサンスも中盤を過ぎると、こうしたジョスカンを始めとするフランドルの作曲家の技法を吸収した各国の作曲家が、各地の民族的な音楽性を活かした曲作りをするようになりましたが、ジョスカンの世俗曲はそうした作曲家にとっての良き手本であったのだと思います。

 このころになると、ペトルッチによる活版印刷によってジョスカンの楽譜も広くヨーロッパに流通するようになり、当代最高の音楽家としての名声を獲得したのでした。かの宗教改革者マルティン・ルターも「他の音楽家は音に支配されているが、ジョスカンだけは音を支配している」とジョスカンを称えています。
 ルネサンスの天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)と同時代を生きた作曲家ですが、ダ・ヴィンチが美術の面で果たした役割を、音楽の面で果たした人物がジョスカンであったといえるでしょう。

ジョスカン・デプレ:ミサ・パンジェ・リングァの詳細についてはこちら
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盛期ルネサンスの作曲家たち

 ジョスカン・デ・プレが活躍した時代は、フランドル楽派の最盛期でもありました。ジョスカン以外にも一流の作曲家が数多くフランドル地方から輩出し、ヨーロッパ各地の教会、宮廷で活躍をしていました。
 代表的な作曲家としては、ハインリヒ・イザーク(1450?〜1517)、ヤコブ・オブレヒト(1450?〜1505)、ピエール・ド・ラ・リュー(1460?〜1518)といった人たちがいます。

 ハインリヒ・イザークは、フィレンツェでメディチ家に仕えた後、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世の宮廷作曲家として、ウィーン、インスブルックで活躍した作曲家です。1512年にインスブルックを離れフィレンツェに戻り、この地で亡くなっています。
 最も知られた作品としては、インスブルックを離れるに際して作曲した多声歌曲<インスブルックよ、さらば>があげられるでしょう。また、代表作としては、一年分のミサ固有文全てをポリフォニー技法により作曲した<コラリス・コンツタンツィヌス>という大作があります。

 ヤコブ・オブレヒトは、ネーデルランド地方(現在のオランダ)各地の教会で楽長を務めた作曲家です。その後、オブレヒトは、ジョスカンの後任としてフェラーラ公の宮廷楽長になるはずでした。
 実はジョスカンがフェラーラ公の宮廷楽長を一年足らずで辞任してしまったのは、ペストの流行を嫌ってのことなのですが、不幸にもオブレヒトはフェラーラに赴く途中に、そのペストに罹って亡くなってしまいました。
 その作風としては、ポリフォニーの複雑さよりも、明るく平明な味わいが特徴であるように思われます。

 ピエール・ド・ラ・リューは、マクシミリアン一世の宮廷や、フランドル総督マルガレーテの宮廷で活躍した作曲家です。ジョスカンとともに、この時代に最高の名声を獲得しました。
 代表作である<レクイエム>は、オケゲムの次世代の作曲家によるレクイエムとして重要な作品です。このレクイエムに限らず、柔和で神秘的な作風が持ち味といえるようです。


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